「今のリクエスト、どう伝えるべきか──」
Slackに届いた上司からの英語の依頼を読みながら、僕はふと手が止まった。
明らかに現場の状況を知らないトーンで書かれたそのメッセージは、理屈としては正しい。
でも、それをそのまま翻訳して日本チームに伝えることは、どこか違う。
僕は今、社員1000人を超えるイギリス系SEOメディアで、日本語チームの責任者をしている。
フルリモートで、チームメンバーは世界各国に散らばり、SlackやMonday.comといったツールで日々の仕事が動いていく。
そしてその中で、僕の主な役割は「調整と翻訳」だ。
単なる言語の翻訳ではなく、制度と現場の間、ロジックと感情の間、理想と現実の間を調整し続けること。
いま感じている違和感は、まさにその「翻訳される前の余白」に潜んでいる。
制度と関係のあわいで
人類学には「厚い記述(thick description)」という言葉がある。
アメリカの人類学者クリフォード・ギアツが提唱した概念で、表面的な事実ではなく、その背後にある文脈や意味を丁寧に記述することだ。
ギアツは人々のふるまいの背後にある信念や価値観、つまり文化を、細部から読み解こうとした。
微細なふるまいの背後には、明文化されていない文化的ロジックがある。
そしてそれは、制度やマニュアルでは拾いきれない。
今の僕たちの働き方にも、まさにそんな「厚い記述」が必要だと感じている。
1年半前、Slackで「良いライターがいる」とボスニア・ヘルツェゴビナの上司にプッシュし、家に泊まりに来ていた友人のうぃるさんをライターとしてテストし、採用した。
そこには、書類選考も、面接も、評価基準もなかった。
ただ「信頼できる」と思えた実感と、その場のタイミング、これまでの関係性が重なって、採用という制度が一瞬で生成された。
こんな経験を無数に重ねてきた僕たちのチームでは、契約上は「正社員」や「フリーランス」といった線引きがある。
けれど、その実態はもっと流動的で、Slack上では業務のやりとりしていても、オフラインでご飯を食べたり、プライベートな悩みを相談し合ったりする関係がある。
イギリスの人類学者マリリン・ストラザーンの言葉を借りれば、僕たちは「individual(分離された個人)」ではなく「dividual(分割可能な関係的存在)」として働いている。
individualとは、あらかじめ確立された、これ以上分割ができない「個人」を前提にする視点。
一方、dividualとは、文脈や関係性によって絶えず組み替えられる断片としての存在を指す。
たとえば、うぃるさんは「編集者」でもあり「頼れるサブリーダー」でもあり「オフラインでの友人」でもあり「AIツールとSubstackメルマガの相談相手」でもある。
文脈に応じて、複数の関係的側面が現れる。
この視点は、友人関係と業務関係が重なり合うようなリモートチームを捉えるうえで、非常に示唆的だ。
でも、だからといって「ゆるい」わけではない。
ツールによる進捗管理や、Slackのメンション文化による緊張感、そして成果へのコミットメントが文化として根づいているからだ。
なぜ人類学的な視点が必要なのか
おそらく多くの人にとって、「人類学」という言葉は遠い。
アマゾンの奥地やアフリカの村を訪れてフィールドノートを取るような、そんなイメージがあるかもしれない。
けれども、今注目されているのは、「近くの異文化」をどう描き出すかという視点だ。
ここでいう「異文化」とは、今のチームにおける制度化されていない働き方、あるいは採用プロセスに潜む即興性のような、制度の"手前"にあるその場しのぎの実践の数々。
国際企業においては、上層部のリクエストと現場の状況に温度差があり、そのギャップを"誰か"が翻訳し、調整することで成り立っている。
僕にとってその"誰か"は、自分自身でもある。
「制度としての組織」ではなく、「関係としての組織」。
マネジメントや組織論の言葉だけでは捉えきれない、そのあいまいさを文化として記述することの価値を感じている。
2020年以降、コロナ禍をきっかけに急速に広まったリモートワークは、「制度」として整備される前に一気に普及した。
だが、2025年現在、多くの企業でオフィス回帰が進んでいる。
これは、リモートワークが「例外的な措置」から「制度化された働き方」になりきれなかった証左とも言える。
つまり今は、「制度になりきれなかった文化」が揺れ戻されている時期。この制度の不安定さの中で、僕たちは毎日を過ごしている。
まだ名前のない働き方
僕がかつて文化人類学を学び、研究の道を途中で離れた理由も、アトピーや生活の不安定さといった制度外の事情だった。
けれど、今働いているこのチームもまた、どこか制度の外側にいる人たちが集まり、関係と実践によって自分たちのやり方を立ち上げている場所だと思っている。
このメルマガでは、自分自身もこの文化の一部であることを前提に、Slackのすれ違いや、採用の即興性、上司と部下の距離感、制度と信頼の綱引きといった日々の光景を、フィールドノートのように綴っていきたい。
これは人類学でいう「オートエスノグラフィー(自己民族誌)」の手法でもある。自分の経験を素材に、そこから関係性や制度の生成過程を照らし出す。
単なる日記や感想ではなく、「僕自身もこの文化の一部である」という前提から出発する記述だ。
まだ名前のついていない文化を記述すること。整っていない現実に、手触りのある意味を見出すこと。
これを日常的に行っていきたい。