こんにちは、シュンスケです。今日のフィールドノートは、Slack(スラック)という「制度になりきらない空間」について記します。
制度になりきらない空間の中で
同じSlack(スラック)を開いているはずなのに、僕が見ている風景と、同じチームで働く仲間が見ている風景は、まるで違う。
メンションで埋め尽くされた僕の画面。静寂に包まれたチームメンバーの画面。同じ会社、同じツール、でも全然違う世界。
Slackには、制度があるようで、ない。
「シュンスケさんが見てくれるから大丈夫」という安心感の正体
チームがまだ少人数だった頃、僕はボスニア人の上司や、進行しているのウェブサイトプロジェクトのPMとの窓口を一人で担っていました。
みんなが記事制作に集中できるように、外部とのやり取りや方針の読み取りは全部僕が引き取る。
Slackで英語の指示が流れても、それを受け取って対応するのは、いつも僕でした。
だから自然と「Slackにはとりあえず書いてあるけど、読まなくてもシュンスケさんが拾ってくれるだろう」という空気が生まれていく。
それはある意味で信頼だったけれど、チームが大きくなるにつれて、僕一人ではボールを拾いきれなくなっていきました。
そこで僕は「自分が担当しているウェブサイトのSlackは、自分ごととして見てほしい」と、繰り返し伝えるようになりました。
でも、「自分ごととして見る」って、そんなに簡単なことなのでしょうか?
Slackが映し出す、見えない階層
Slackの通知は、すべてが"流れる"ように設計されています。
情報をストックして、チーム全体のナレッジとして参照することには向いていない。
「とりあえず見た」「リアクションをつけた」「あとで忘れた」──その繰り返しの中で、情報は消えていきます。
しかも、そこに流れてくる情報の量や密度、圧力は、人によってまったく違う。
メンションされる回数、参加チャンネル数、通知の緊張感。Slackの風景は、会社における各人の役割と位置づけによって「非対称」に立ち上がっているのです。
たとえば、フリーランスのメンバーが僕に直接メンションしてくるとき、僕は「担当エディターの○○さんに聞いてほしい」と、内心イラッとしてしまうことがある。
意図的ではないと分かっていても、「指揮系統のレベルを一段階飛び越えられた」という違和感を拾ってしまう。
逆に僕が上司のボスに直接メッセージを送ったとき、やはり怒られてしまいました。
Slackはフラットなようで、実はとても「階層に敏感な空間」でもあるのです。
制度は、関係の手触りに宿る
それでも、Slackの中に「制度のようなもの」が芽生えることがあります。
以前、ニュースチームのナオキさん専用のSlackチャンネルを新しく立ち上げました。
それは上司たちが見ていない「半クローズド」な空間で、彼が主体的に舵取りできる場所でした。
僕はそのチャンネルのオーナー権限をすぐにナオキさんに渡して、「この部屋の主はあなたです」と伝えました。
その後、彼の言動に変化が現れはじめました。
Slackの情報が、単なる「流れ」ではなく、「自分の空間をどう使うか」という問いに変わっていったようでした。
制度は、必ずしもルールや命令ではない。
関係性の配置や空間の設計によっても制度は生まれる──その瞬間を、僕は目撃していたのかもしれません。
Slackは「制度」なのか?
今の会社では、Slackは「社員のための空間」とされています。
他チームでは、情報保持の問題からフリーランスメンバーがSlackに招待されることは、基本ありません。
けれど僕のチームでは、フリーランスも全員Slackに参加しています。
もちろん、閲覧できるチャンネルは必要最小限に絞り、権限も丁寧に設定しています。情報漏洩のリスクがゼロでないことも承知しています。
それでも、僕は性善説に立ってこの方針を取っています。
信頼し、手渡し、開くこと。そのほうが、Slackは制度のように機能するからです。
Slackは制度ではない。けれど、制度のようにふるまっていた僕たちがいる1。
そのふるまいは、誰かに設計されたわけでも、明文化されたわけでもない。
ただ、日々の判断と実践の積み重ねの中で、「制度っぽさ」が立ち上がっていく。
制度とは結局のところ、誰を空間に入れるか、誰とどこまで共有するかという判断の繰り返しなのかもしれません。
そして、その判断を支えているのは、明文化できない信頼や関係性の手触りなのではないでしょうか。
制度はどこにあるのか──ふるまいと関係のなかの制度論
Slackという空間を制度として見るのか、それとも制度未満のものと捉えるのか。この問いを考える上で、二つの理論的視座が補助線を引いてくれます。
■ ギデンズ:制度の「立ち上がり」を見る
社会理論家アンソニー・ギデンズの構造化理論は、制度や社会構造があらかじめ存在するのではなく、人々のふるまいのなかで日々再生産されていくことを明らかにしました。構造は上から押しつけられるものではなく、僕たちの選択・判断・繰り返しによって支えられ、同時に生まれています。
Slackで誰にメンションするか、どこまで読むか、どう振る舞うか。そうした実践の積み重ねが「制度らしき空気感」を立ち上げていたのだとすれば、そこには制度の構造ではなく、「制度のふるまい」があったと言えるのかもしれません。
■ ストラザーン:制度の「持ち方・保持のされ方」を見る
もうひとつの補助線は、マリリン・ストラザーンが示す「保持される制度」の考え方です。制度とは、何かがそこに「ある」のではなく、誰かが関係のなかで「持ち続けている」ことでしか制度でありえない。
ナオキさんのSlackチャンネルを託したとき、フリーランスメンバーに必要最小限の空間を開いたとき──それらはすべて、制度というよりも、制度を保つ行為だったのです。
■ 二つの視座から見えるもの
ギデンズが制度の「立ち上がり」に注目するなら、ストラザーンは制度の「持ち方・保持のされ方」に光を当てます。制度は構造ではなく、関係の手触りに宿る。その視点に立てば、Slackの中の小さな緊張や、振る舞いの違和感もまた、制度のリアルを映しているのかもしれません。
参考文献
Giddens, Anthony. The Constitution of Society: Outline of the Theory of Structuration. University of California Press, 1984.
Strathern, Marilyn. Partial Connections. Rowman & Littlefield, 1991.